月別アーカイブ: 2013年9月

【本当に困った時に行く歯医者】

 歯科医師過剰の時代である。

 何処も患者獲得の為に躍起になっている。
その為であるのか、
ハタマタ、
当節流行りの
お、も、て、な、し
精神の行き過ぎで
患者さんの言いなりの
歯科業界である。

 治療には
避けては通れぬ関所がある。

 患者さんの気持ちは
判らなくはないが
いつか将来
絶対に喜んで貰うために
患者さんの今の意に反する
意見を敢えて言わせて頂く時がある。

 私の言葉に対して
耳を傾けて下さるか否かは
患者さん次第ではあるが。

 其れでも敢えて
言わせて頂くのが
専門職の責務である。

 が、当節
歯医者等は何処でも同じと
私に言わせれば
大いなる勘違いで来られ、
他所とあからさまに比較の目で
じぃーと
私を見られている方が居る。

 この様な場合には
大人気無い私である。

 身体中から
何時もであれば
沸き立つ情熱が
一向に
涌き出て来ない。

 又、平均的な治療を
望むので在れば、
過剰な検査をすれば安心と唱う歯科医師の基へ
通院すれば良いと思うのだが。

 検査をすれば
判るだけで、
出来るとは
違う事を
皆が認識すべきである。

 先日、テレビで
テント職人の名人の手による
テントに対して
物凄い機械が造り出す
猛風との
対決なる番組が在った。

 此の凄まじい風は
突っ走る新幹線のぞみの上に
テントを設置して
走る程であるとの解説に
皆がテント職人の顔を
半分慰めの眼で
其の対決の結果を
待っていた。

 人間の感性と技の
勝利であった。

 かほどに人の感性とは
素晴らしいものである。

 永年、自身の芸に
ひたむきに取り組んでいった
職人の勘の凄まじさを
歯科医師も
もう自覚せねばなるまい。

 私は平均点の治療はしない。
人間である以上、
常にベストで
仕事に取り組んで
日常を
過ごすを
信条とする私である。

 本当に困った時に
思い出して頂きたい。

 この様な方だけで
私は今まで
生きて来られたので
今更、
自分の流儀を変える気持ちは無いのである。

ダイレクト.ボンディング その2

 盛夏の盛りのお盆の
お墓参りを済ませたと思っていたら
もう、秋の彼岸である。

 猫の額の様な
平野とは名ばかりの
讃岐平野を
東に向かって
車を走らせた。

 大きく開けた
助手席の窓から
マリリンが半身を乗り出し
快走する車の風を
受けている。

 碧眩しい稲穂の中に
薄紫の秋桜が
柔らかな風に揺れていた。

 先祖の墓に
祈りを捧げ、
暫くの間
高台から街を
見おろしていた。

 瞼に映る風景は
幼い頃より変わっていないが
当の瞼の持ち主は
確実に歳をとっている。

 先のブログで
其のタイトルを
ダイレクト.ボンディングとしたのであるが、
話が飛んで、
肝心のダイレクト.ボンディングにまで
至っていなかった。

 此が、則ち老化現象である。

 金属アレルギーの方が居る。
歯科用金属が原因となって
アレルギー症状が発症する時が
在るようだ。

 在るようだとは、
私には、
その様な症例は無いからである。

 但し、理論的には
あり得る話である。

 廃価なるアクセサリーに
使用されているニッケルクロム合金。
此の合金が肌に触れただけで
北欧の人間は
全身に発疹が生じてしまう。

 人種的な特異性である。

 歯科で金属に曝される前に
大概は
日常生活の中で
金属に触れる機会が多いのだが。

 歯科の治療を受けて
いきなり金属アレルギーとは。

 本来で在れば
もっと精査が必要である。

 何故なら、その様な症例、
則ち、
患者さんから
自身が金属アレルギーだと
申告された全ての症例が
アレルギーではなかったからである。

 今流行りの審美歯科。
金属が見えない、
(これは本当である。)
金属がないから
アレルギーが起こらない。
此れは真っ赤な嘘である。

 何故なら、
ジルコニアには
眼にこそ見えはしないが、
其の成分の約半分は
金属である。

 何事にも敏感になるのも良いが
そこまでアレルギーが怖ければ
ダイレクト.ボンディングにて
修復するが良かろう。
(やっと、本題だ!)

 但し、
此のダイレクト.ボンディング。
余程、器用な歯医者でなければ
綺麗には治せない。

 長くなったので、
詳しくは、また今度。

ダイレクト.ボンディング

 大学院に入って二日目の事、
今から凡そ30年前の話である。

 指導教授の鞄持ちとして
上越新幹線に再び乗り込み
東京へと舞い戻った。

 アラバマ大学のカール.ラインフェルダー教授と
会うためであった。

 当時の私にとっては
教授が世界的権威である事を
知る余地もなく
但、今後の歯科医療の
方向性を予知される
貴重な経験であった。

 今ではインプラントの専門家の様に
云われている私であるが
当時の私の研究論文には
今で云う処の
審美歯科の代表選出である
オールセラミック修復が多いのは
ラインフェルダー教授の
影響を受けたのは
間違い無い事実である。

 今になって、
何処かのホームページや広告で
歯科金属アレルギーの方へと
ありがたそうに宣う中に
ジルコニア.クラウンを推奨するのに
触れて、
大いに其の無知に
頭を抱え込んで仕舞うのである。

 若いうちは
遠回りしても良いから
基礎の基礎を
確りと勉強しなければ
どこぞの馬鹿の様に
勘違いの気違い高じて
誤った治療の基になってしまう。

 人生は短い様で
矢張、長いものであるから
専門職につく者は
勉強だけは
ズーと、
続けなければ
即、引退するが
世の為である。

私の一日の過ごし様

 私の診療所は午前10時から
診療が始まる。
終わりが午後の6時である。

 昼休みは殆んど取れない。
スタッフも、
少しの空いた時間に
昼食を喉に流し込む。

 診療に費やす時間が
都合8時間である。

 私は複数の患者さんを
掛け持ちしては
拝見する事は無い。

 お一人の治療が終わってから
次の患者さんを拝見するが
私のスタイルである。

 一人に一時間は
余裕を持って
患者さんとの時間としている。

 一人一時間と云うのは
最低所用時間である。

 手術や歯形を採るとき等は
当然の如くに
一時間では終わらない。

 則ち、私の診療所では
一日に最大で8人の患者さんしか
拝見する事は出来ない。
逸れも、私もスタッフも飯抜きでである。

 通常はもっと少ない患者さんしか
拝見する事は出来ない。

 私は午後の9時に床につく。
仕事が終わってから寝るまでの
3時間あまり、
通勤に30分、
犬の散歩に30分、
入浴諸々に30分、
残りの一時間半の間に
夕食を採り、
少しの休息である。

 起床は午前3時。
仏壇の前での読経に30分。
犬の散歩に30分。
机の前で3時間あまり。
内訳は、
海外の論文に1時間。
国内の論文に1時間。
小説や評論に1時間。

 午前7時に家を出る。
診療所につくのが
7時半で、
8時迄に
診療所前に水を打ち、
観音様に手を合わせる。
10時までの間に
患者さんの治療計画を経てたり、
ブログを書いたり、
仕事の打ち合わせなりの
メールのやり取りをする。

 此れが私の一日の過ごし様である。
其ほど私は規則正しい一日を過ごしている。

私の患者さんに対する考え方

 此のところの無理がたたったのか
疲労がピークに達し
久方ぶりに
診療が終った後に
マッサージ師を
自宅へと迎えて
二時間ほど
身体の手当てを受けた。

 何時も限界にまで我慢するからですよと
此れも何時もの台詞を耳に
時折、呻き声と叫び声を挙げながらも
身体の筋肉が弛緩していく様が
手に取る様に感じられる。

 私は仕事が終わると
人と接しない様に
心がけている。

 臨床家と云う仕事は
技術だけでは
成り立たない。

 生きた人間と云う
やっかいな生き物と
係わらねばならない定めを孕んでいる。

 時と場合に因っては
此が重荷となる。

 女郎と同じで
私共の仕事は
来るものを拒めないからである。

 昔の著名な臨床家の遺した
書き物には、
匂いの合わない患者さんには
積極的な治療を
推し進めてはならぬと
皆が一様に
書き残しているが、
私も同様の意見である。

 私は専門職であるから
無理してまでも
自身の信念を曲げてまで
患者さんの希望に沿う治療は出来ぬ。

 先の先を見越した
診断と治療計画が立案でき
正確な仕事が出来きる手指を鍛えるを
歯科医の責務と識るが、
金銭を払っているのだからとばかりに
素人の絵空事を
当然の如くに主張する人の
気儘に付き合える程、
私は不誠実な人には
成りたくない。

 私は大金持ちではないが
金の為と割りきって
自身の芸風を
曲げれる程の
浅ましい人には
成りたくない。

 私はブログで
本音を語っている。

 私とのウマが合わないと感じたならば
私の仕事の邪魔はせんで頂きたい。

 この様な私でも
私の手指を必要とされておられる方が
多い故に。

旧友

 仕事に就いてからの知り合いは
なにかと互いに遠慮が在るものである。

 に較べて、
大学時代の友人と云うのは
何時まで経っても
其の距離が変わらぬ処が
誠に不思議なものである。

 昨日、
群馬県のトアル医療系大学にて
解剖学の教授を務めている友人と
電話を通して
随分と長い間、
話し込んでいた。

 彼は私とは違って
大変地味な基礎医学を
自身のフィールドとして
専攻した。

 立派な選択であると
私は彼を尊敬している。

 日本歯科大学では
学・術・道を兼ね備えた
歯科医師を世間に出すを
其の使命として
学生教育に能って
既に一世紀以上の時を
過ぐるものである。

 専門職としての自覚を促す為に
様々な形で活躍中の歯科医師に
特別講義と云う形で
学生の目が開く機会を
設けている。

 今年の12月20日に
彼は母校の教壇に立つ様であった。

 卒業生としては
誠に名誉な事である。

 他校は知らぬが
日本歯科大学の校友の結束は固い。

 皆が母校のお役に立つを
当然の使命と考えて
日頃の臨床生活を送っている。

 友人は大変、喜んでいた。
この時期、君は居るのかいと
尋ねられたので、
早速、飯でも行くかい?と
相成った訳である。

 其の後の話展開の速い事が
同級生同士のよしみである。

 古町で芸者でも呼んで
都々逸でもと
雪に三味線、
みぞれに冷や酒と
今年の暮れは
柳都の情緒に
若い小僧共には
判るまい、
大人の男の時間で
締め括る結果とあいなった。

他人の噂

 朝の一番に来られた患者さんが
私の顔を観るなり
泪が頬をつたわったので、
私としては
驚きを隠せず
この様な日頃優しげな
人生経験豊かなる時間を
過ごされたる女性を
泣かせる訳を
問い掛けたのである。

 他人の噂、中傷が
泪の訳で在った。

 この様な場合は
とやかく慰める事よりも
黙って聴いて差し上げるのが
良い事を
私は自信の経験より
熟知している。

 他人から耳にする
他人の話等と云うものは
大概が、
根も葉も無いもので、
私等は
むしろ他人の噂話を
してくる人の方を
愚かなるかなと
憐れみを感じつつ
顔を見つめている。

 一度きりの人生である。
其の三分の一は
確実に睡眠に採られて仕舞うので
神さまから
与えられた時間は
とてつもなく短いのである。

 別に持って
あの世へと行ける訳では無いが
人間としての
品格と奥行きを
持たせる事に
私は過ごしたいと
思っている。

 他人からの
陰口などは
私の様な自営業者は
辞めて貰った従業員からは
何を云われていることやらと、
ではあるが、
逸れでも
命よりも大切な
歯の仕事である。

 腐り物は
矢張、
早々に捨て去らねばならない。

 この様な腐り物を
ありがたく迎え入れる処は
此れは此で
同類同士の群れ造りであるから
私とは
違った水を飲んで育った人と
今後の関係を断ち切れば良いだけの
話と
私は割りきっている。

 此の患者さんであるが
帰られる際には
頬の緊張も
すっかりと採れて
それでは先生、また来月にと、
診療所を後にされたのである。

夢の超特急

 幕末に西洋人が持ち込んだ
蛇腹のカメラを
魂が吸い込まれて仕舞う道具と
驚愕した当時の
江戸の人間の心境
さながらの私である。

 朝刊の一面に
東京ー名古屋間を
僅か40分で結ぶと云う
リニアモーターカーの記事に
この様な恐ろしい電車になど
乗れるものか!と
怖じ気づいた私を
孫子の代には
江戸の時代の人間よろしく
笑うに違いない。

 誠に時代は移り過ぎてゆく。

此の夢の超特急であるが、
路線の大半はトンネルの中を
走り抜けての
味気無いもので在るようだ。

 私等は旅する際の
車窓から流れる景色に
物思いにふけるを
其の醍醐味であると思っている。

 今では無くなってしまったが、
私が学生時代まで
新幹線のなかには
食堂車が在った。

 なんとなく大人になった
心持ちで
文庫本をテーブルに伏せて
熱い珈琲を啜りながら
暮れゆく街の家灯りに
此処にも人の暮らしが在るのだと
彼是、想いを巡らせたものである。

 確かに時間は貴重では在るが
これ程のスピードを求めては、
却って
人が人たる所以である余裕と云うか
糊代みたいなものが、
失われて
確実に情緒のない人間を
造り出す結果となろう。

 時代遅れの戯言である。

真の健康法

 食欲の秋と云うが
食べる楽しみ無くして
何の人生に意味が在るのであろう。

 旬の野菜を
錦まで買い出しにでも
出掛けようか等と
カレンダーを捲って
思案しつつ、
米を何時もの
南魚沼から
送って貰う手配をした私である。

 私は健康食等と云うものには
一切、頓着していない。

 旨い食材を
工夫して手当して、
熱いものは熱い内に
冷たいものは
確りと冷して
喉から食道に落ちた刹那に
旨いと唸るのが
最上の健康法であると
信じている。

 感性と栄養の源を
取り込む為の口腔である。

 口腔の管理、衛生に
無頓着な人が、
物知顔で
健康食を語るのは
滑稽である。

 樹を観て森を視ずとは
まさに此の事である。

 治療と云うものは
何かしらを犠牲にして
成り立つものである。

 普段からの
予防を心掛ける事こそ
真の健康法である。

本当に困った時に行く歯科医院

【本当に困った時に行く歯科医院】を
自称する私である。

 歯科の治療等、
何処で受けても同じだと
お考えの方は
どうぞ、
他の歯科医院で治療を
受けて頂きたい。

 なんだ生意気な
この野郎!と
お感じの方は
来て頂いても
絶対に
私とはウマが合わないので
時間の無駄である。

 私は決して
治療してやっているとは
思った事はない。

 が、治療させて頂きますと
へりくだる気持ちも
更々ないのが本音である。

 歯医者なんか信用出来ない!が、
困った!と、
本当に困った時にだけ
思い出して頂きたい。

 病気はついででは治せない。

 治療する側、される側、
伴に手を取り合って
真剣に
治療に取り組む事が
成功の必須条件である。