月別アーカイブ: 2015年3月

高い!か、安い?か、私の診療所の治療費用

私の診療所は、インプラント治療、審美歯科治療、特殊な入れ歯が治療の大半です。

これらは健康保険の治療の対象外であるために、

患者さんは実費でその治療費用をお支払い下さっています。

セラミックの歯を入れる際の、その歯の根の治療は、法的には保険の治療の対象外です。

この根の治療を健康保険で医師が治療すれば、混合治療を行ったとして罰せられます。

この規則の正否については想う処はありますが、法を守らねばなりません。

その様な理由から、私の診療所では保険治療は行っていません。

但し、健康保険の決まり通りの材料や手順に縛られないので、

私の納得のゆく治療が行えます。

最近、他の歯科医院のホームページなり、他所から転院して来られた患者さんから、

治療費用に関して、結局、私の診療所の方が易くついたと言われます。

それは当たり前のことであって、

私の診療所は専門店みたいなモノですから、

患者さんの望む結果が速く、確実に得られるのは当然にて、

期間も費用も、精神衛生上でも、

満足して頂けるのは当然だと思っています。

虫歯の治療

この3、4年で私の虫歯治療は全く変わってしまいました。

虫歯を取り除き、完全に封鎖するまでにラバーダム防湿にて

完全防護するのは今まで通りですが、

虫歯に対する攻めかたは完全に変わってしまいました。

お陰で、神経を殺すこともなくなりつつあります。

歯を残すのが、歯科保存学の基本です。

色々なレシピがありますが、

これは後程に日本歯科大学の生物学の岡先生が公表するまでの秘密です。

イヨイヨ私の出番!

歯科衛生士の宮田君の歯列矯正治療が終了しました。

兵庫県川西市ご開業の畑豊先生、ありがとうございました。

約2年半の治療でした。

宮田君も、安い給料のなかをセッセと、毎月の治療で大変だったと思いますが、

歯科衛生士として良い経験になり、また生涯、自分の歯で過ごしてゆけるので

大きな収穫となったことと思います。

今から、修復治療前の準備としてのホワイトニングに着手します。

歯の色を整えてから、イヨイヨ私の出番です。

宮田君が私の歳になった時には、恐らく私は引退するか、

この世に居ないかもしれません。

師匠たる私の仕事の結果が、宮田君の口の中で生涯残るように、

私の名前こそ刻むことは出来ませんが、

宮田君という歯科衛生士にとって、最高の歯科医であるために

確りと診断して、腕を奮いたいと思っています。

かように歯科の仕事は、歯科矯正医、歯科衛生士、歯科技工士に支えられ、

初めて私、歯医者の腕の見せどころとなります。

三枝メソッドの始動開始です。

三枝メソッドの虫歯治療

同業の方から歯科の最先端を走っているように思われているようですが、

それは大きな間違いです。

基本に忠実な治療を心がけています。

昨日新しく生まれたような、実績のない治療は控えています。

入れ歯、被せもの、インプラント‥‥‥、

確実な方法こそが患者さんの利益になると信じています。

長い間、患者さんの口の中を診察して感じることは、

やはり歯医者は虫歯との戦いである!と。

私の診療所では、歯周病のコントロールは既に終わりました。

噛み合わせみのコントロールも、あと少しで解決するでしょう。

歯の神経を採る機会も激減しました。

現状、私の毎日は、歯がない処に対する手当てと、折れた歯の手当て、そして根の治療を施された歯に対する再治療です。

その対応としてのインプラント治療であったり、入れ歯であって、

審美的な治療は、歯を触るのだから綺麗にするのは当たり前!で、

特別に意識したことはありません。

結局の処、虫歯にならなければヘタクソな治療を受ける羽目にはならずに済むし、

といって、歯の治療はナンダカンダ言っても、最後は歯医者の腕一つで決まって仕舞う現実。

歯医者みんなが上手な訳はありません。

また高齢者をよくよく診ると、加齢とともに唾液の分泌が激減し、

結局、虫歯の発生が増えてきます。

という訳で、私の最後の仕事は虫歯をヤッツケルことと決めた次第で、

端から観れば、変わり者、キチガイと呼ばれる過ごし方を送ってきたのです。

今日、6歳の末の娘が虫歯をつくって!

反省しつつ、私の方法で治療を行いました。

これは今は言えません。

日本歯科大学の生物学の岡先生らが、三枝メソッドの虫歯治療の根拠を立証して下さるでしょう。

私の診療所では、虫歯で酷くならないことを、

インプラントや入れ歯、神経を採る機会のない防波堤の最前線である根拠を示そうと決意しています。

走りに走る

カルテを記載しながら、時計に目がいってしまいます。

10時45分を回った処です。

山形市から宮城へと向かおうか?それとも天童市から入ろうか?と、

標識を前に考え込んで、

灯油やガソリンを入手しようとスタンドに並ぶ車の窓を叩いて、

確かな情報を得ようと必死でいた自分の声が耳に残っています。

前には気の遠くなりそうな雪の山々が立ちはだかっています。

これを越えなければ仙台へは行くことは出来ません。

テレビからは、繰り返し繰り返しACの代替広告の音楽とナレーションが流れて、

私の神経を逆撫でさせています。

新たな情報が報道されるかもしれずスイッチを消すこともできずに、

泣きたいやら、腹が立つやらで。

一車線程の曲りくねった小径は凡そ7メートルの雪の壁で両の側を囲まれています。

無論、路面は雪で覆い尽くされ、白、白、白一色の世界です。

下りの坂で、車の尻は左右に振られ、

時には車の前のバンパーは、角を雪の壁にぶつかり、

走りに走ったのが、4年前の今日の今時分でした。

今思い返すと、それでも私は恵まれていました。

倅は私からのメールに、東北大学医学部病院へ歩いて向かっていたのですから。

当然、そんなことは私は知りません。

ただただ、杜の都と唱われる街と広瀬川の光景を瞼に浮かべて走り続けていました。

夕刻に倅を見つけ、ターンして再び、闇夜を越後目指して走りに走った身体の震動が

今でも身体に記憶されています。

何処だかサッパリ判りませんが、途中で立ち寄った小さな食堂で、

倅が黙って掻き込む丼の湯気に、涙で視界が曇って、安堵するやら、不安な心持ちで、

表現の術がありません。

昨夜も今朝も、白檀の焚き、ただただ被害に遇われた多くの方々のご冥福をお祈り続けていました。

ふと、時計の針を目で追って、あの時の私を思い出してしまいます。

納車して間もない車のタイヤを破棄して、

ホイールに届いたばかりのスノータイヤに履き替えて、

ー お父さん、どうぞご無事で!息子さんは絶対に見つかりますよ! ー

彦根市のタイヤ舘の店長さんに見送られて、

ハンドルを大きくターンしてアクセルを踏み込んだのが、四年前の今です。

顔中は真っ赤に火照り、胸は張り裂けんばかりで、

速く、速く、日本海を目指せと火の玉になったのは

私も人並みの親であったからでしょう。

親の自覚が在るのか無いのか判らず過ごしてきましたが、

本能的な直感を大切にしていたいと、改めて感じて今を過ごしています。

合掌

未だに3人の娘たちと一緒にお風呂に入り、並んで床に就いています。

テレビから流れる津波の映像に、娘たちは心が高揚した様子です。

この大きな災害と、父と兄が関係していることに気づいているようです。

並んで床から天井を仰ぎながら、上の娘が口が開きました。

ー パパ!地震の時に兄ちゃんとパパは何があった? ー

一通りの話を聞かせて、あの日の惨状をその通りに話しました。

両の側からすすり泣く声が聴こえます。

未だ不明の方々が2500人も居られることに、娘たちは想う処が在ったようです。

気がつけば、皆が布団から両の手を出して合掌していました。

暫くして、寝息が。

眠る娘たちのあどけない表情と、

あの日、私の残像として生涯残るであろう、被害に遇われた多くの幼児の表情が

心に多くの想うところを‥。

言葉では言い尽くすことが出来ません。

愚かな生き方だけはしてはならないとだけ、

それが生かされた者の最低限の道理だと思っています。

今日、あの日を迎えて

其々の想いで今日の日を迎えたことと思います。

昔の記憶は鮮明に昨日の事のように覚えていますが、

最近のことはサッパリにて、これも歳のせいかと悩んでいます。

が、4年前の今日からの数日間の出来事は、生涯忘れることはできないでしょう。

人として、歯科医として私が生まれ変わった日ですから。

翌日に倅と、新潟駅にて待ち合わせの約束をしていました。

宮城県から私の第2の故郷である新潟にて高校へと進学するための受験を眼前に控えていました。

倅と愛犬の切符も既に倅のもとへと送り、

一路新潟を目指して、車を走らせていました。

阪神高速を神戸辺りを過ぎた時に、倅からの着信音が鳴り響きました。

ー 父さん!助けて! ー

プッツリと切れた携帯電話の応答はまったくありません。

車中のテレビ、ラジオでの報道は、時間の経過とともに私の奈落の底へと突き落としました。

取りあえず、大阪にて情報収集に努め、

夜明けとともに私は、北陸道で新潟経由で宮城県に向かう決意をしました。

が、生憎の雪、雪、雪。

道路規制にて彦根にて道路から下ろされてしまう始末!

朝の9時頃です。

初めての街で、スノータイヤを見つけるために走り回りました。

季節外れの雪のために、何処へ行ってもスノータイヤはありません。

諦める訳にはいかず、探して、探して、最後の最後に、

タイヤ舘の店長さんが一肌脱いで下さいました。

ー お父さん!息子さんの処へは絶対に行かせてあげます!神戸からタイヤ直ぐに運ばせます!

  昼過ぎには、出発出来ます! ー

今での車中から彦根を過ぎる時に、タイヤ舘の方角に手を合わせて御礼するを常となりました。

大泣きして、店長さんにお礼を申し上げ、吹雪の彦根城を仰いだ日を忘れません。

深夜、新潟の自宅へと入りました。

本来であれば、今ここに一緒に居る筈の倅の所在は不明です。

警察でも、母校においても、危険であるからと

当地へと向かうことは止められました。

ー 時報零時を基準に2時間おきに10分間だけ、東北大学医学部病院前で立て!父は必ず行く! ー

とだけ、届くか届かないか判らないメールを送り、

朝の5時に新潟を出発しました。

荒れ狂う日本海を横目に北の山形へ、

そこからは雪の山を越えて大平洋側へと向かわなければなりません。

辿り着いた経路は判りません。

雪国の人情に助けられ、先へ先へと誘って頂いた恩情を忘れません。

夕刻、病院前でボロボロの姿になった倅の姿に、

私は神様、仏様の存在に確信を持ちました。

荒れた街を抜け出して、再び雪の山を越えて、

新潟の象徴である信濃川に横たわる萬代橋の姿に、

あぁ!生きているを実感したのです。

この間、様々なドラマがありました。

倅を落ち着かせて、再び当地へと舞い戻る決意をしたのは、至極普通のことでした。

こんな短い間に、私ら親子は大勢の方々に助けて頂きました。

家人を、娘を探して居られる方々がいらっしゃる筈だと!

東北大学医学部病院はロビーも、何処もかしこも怪我人、病人の手当てで精一杯でした。

歯科医にしか出来ないこと!

不幸にして命を失った方々の所在を確認できることが、私たちの使命です。

津波の恐ろしさ、原子力の牙を思いしらされました。

戦争を知らない世代ですが、仮に戦争がひと度起これば、

このような光景になるであろうは容易に想像出来ました。

多くの犠牲になられた方々とご遺族の哀しみの上に、

今の暮らしが在るのだと日々、痛感しています。

私も心に傷を受け、未だに癒えてはいないと思います。

地震の度に、鼓動が激しくなります。

この頃になると決まって流れる津波の映像に身体が震えます。

この数日は、静かに線香を焚いて、被災者の方々のご冥福を祈り、

お世話になった名前も知らぬ方々のお顔を思いだしながら、御礼申し上げて過ごします。

患者さんへのメッセージ その2.

私に歯科の仕事と娘がなくなったら、脱け殻になってしまうでしょう。

小学校の下校時刻になると、お迎えに車を走らせています。

往復10分程度ですが、その時刻には患者さんの予約は入れておりません
 
昨日は上の2人の髪型をバッサリと短めのボブにイメージチェンジさせました。

ー パパ!男の子ってダメなんで!前に立っているのに10分くらい経ってから髪切ったんに気づくんよ! ー

ー フムフム‥アノなぁ…男ってそういうもんや! ー

小学校4年と私の会話です。

患者さんとよく雑談する私です。

ちょうど通い始めてから1年が経った患者さんが

ー 先生に観てもらっている処ね、5件目なんです。

  1件目はアソコ!

  通い出してから、こりゃヤバイ!と思って変わって転々と、

  で、最後の処なんて、神経をとってからズーと痛くって、

  先生に言ったら何て言ったか判ります? ー

ー イヤ、判んない! ー

ー 私はヤることはヤりました、痛いのは貴方のせいです!私はシリマセン!

  こう言う歯は抜いても痛みはとれません!

  で、被せはセラミックにしましょう! ー

!!!

悩んで眠れなかったそうです。

あまりにもの理不尽な話しに、あきれ果て、同業ですが怒りさえ覚えます。

私もこの歳ですから、嫌な経験をイッパイ味わいました。

怒りに爆発した機会も多く、自己の制御不能になる程に理不尽な目にあったことも度々です。

情けない想いもしました

が、この話しには私も納得出来ません。

我慢も限界があります!

歯のことでなら、決して悩まないで下さい!

患者さんへのメッセージ その1.

歯科の治療に不信があるときに、お越しください。

歯のことで不安に胸が押し潰されそうになったときに、お越しください。

同業の歯科医から私は、変わった歯科医に見えるようです。

当然だと思います。

私の診療所は、歯科のユートピアである自負を持っています。

治療方法、治療結果、プライバシー、費用等々、

皆さんの知って居られる経験が、間違いであることにすぐに気づいて下さるでしょう!

私は歯科治療を通じて、社会貢献することが使命であると信じています。