日別アーカイブ: 2018年3月1日

眼には見えない力

極度な淋しん坊であった私ですが、

神父さんからの

ある言葉から、

この孤独感から解放されたのです。

カトリックは、

いつも神さまと、

会話することが基本なのですよ。

何気なく言われたんでしょうが、

私の心の鍵にピタリと、

適合したのです。

治療の際に、

凝視し、

無心で、

器具を手にしています。

が、

私は歯と、

いつも会話してきました。

歯の声が聞こえるからです。

そんな私を、

ある歯科医師が

私を、

気がふれたと、

その医院に通っている患者さんに言っているようです。

しかし、

その医院に通っていた患者さんが

大勢、

私の診療所へと転院されてお越しになられます。

私は歯が大切でなりません。

どうしてかは判りません。

が、

自分の仕事を大切にできないことを

私は理解できません。

縁があって、

就いた仕事です。

仕事を通じて、

自分を鍛える。

ただただ、

それだけで過ごしてきました。

が、

歯から離れた瞬間に、

私は淋しさに襲われていたのです。

歯以外のことは、

何一つできないからです。

矛盾していますが、

死ぬくらいシンドイのが

真面目に仕事と向き合うと云うことです。

ですから、

仕事から離れた瞬間に、

否応ない孤独感に襲われてきました。

今ですか?

私は幸せ者だと思います。

一度の人生を、

好きな仕事で終えられるのですから。

言葉を発しない、

独り言が多くなりました。

眼に見えない力と、

話ししているのです。

 

 

 

洗礼

昨日の診療が終わったのは

午後の6時半を少しばかり過ぎた頃。

急いで教会へと向かいました。

カトリックでは、

洗礼の前に、

2つの段取りを採らねばなりません。

先ずが入門式。

神父さんから額に十字を記されます。

次いで、

洗礼志願式。

それから、

いよいよ洗礼式と云う塩梅です。

入門式の前に、

神父さんから毎週、

聖書の読み解きから、

カトリック信者の生き方を教えて頂くのです。

で、

昨日が入門式だったのです。

今週の日曜日のミサにて、

洗礼志願式を。

私の場合は復活祭の日、

今年は3月31日がそれに相当します。

その夜に、

洗礼を受けることになっています。

新しい名前は、

師匠である内藤正裕先生から頂きました。

ヨゼフです。

大工であったイエス.キリストの

この世での父の名前です。

洗礼と云うのは、

一度、水に浸かって死に、

新しく復活すると云う意味合いが在ります。

私を取り巻く環境は、

大きく変わっています。

今年は大きな節目になるでしょう。

覚悟を持って、

これからを過ごす。

歯科医学の門を叩いた年から今日までの時間は

既に私には残されてはおりません。

あとどのくらいの時間、

歯科医学と関われるのでしょう。

大切に、

歯を見つめてゆきたいと思います。

それが、

歯の大工である私の仕事ですから。