日別アーカイブ: 2018年3月12日

外観と実際の間には

クラウンが外れて、

ズット放置しておいたのだそうな。

ここまで来れば、

まさかこの根だけになった歯が

残るとは思っておられない様子。

根も真っ二つに折れています。

抜いて、

インプラント入れましょう!

って言われたのだそうな。

で、

私の診療所へお越しになられました。

歯肉に被われていますが、

このような症例においては、

根を被う表面の骨が

楔のように溶けているものです。

そのままインプラントなど入れようものならば、

インプラントの頬側の骨が無い訳ですから、

インプラントが剥き出しになってしまいます。

じゃあ、

ブリッジにしようか?

そう考えてみたのですが、

抜歯の今日、

さぁて麻酔注射をと、

粘膜を視て、

ガ~ン!

大臼歯の真下の歯肉にフィステルが!

前に2名の歯科医師によって

根管治療が施されたとのこと。

クラウンを外して、

精密検査しなければ、

折れ易い根であれば、

ブリッジには使えません。

抜歯の際に、

粘膜を開いて、

双方の歯の骨を視てみました。

ねっ!

簡単ではないでしょう?

 

 

度胸と肝の太さ

先の東北大震災を自分の肌で経験し、

報道を全く信用しなくなりました。

ですから、

新聞もテレビニュースも

ある程度の参考までに

としか。

だって、

原発にしても、

メルトダウンしてたじゃないですか?

あの時の官房長官のコメントは?

現地での、

必死の作業を知ってますか?

放射能が怖いって文句は

誰も言いませんでしたよ。

目の前の地獄に、

少しでもお役にたたねば!

当事者みんなが、

そうだったんです。

私にしても、

圧倒的な放射能を浴びてるでしょうね。

石巻市に私の姉は嫁いでいますが、

家族一同で、

香川県に逃げ帰っていました。

当然かもしれません。

事務所から何から何まで

流された訳ですから。

会計士ですし。

ただ、

医療人は、

そこの辺りが、

一般の常識とは違うべきだと思いますし、

実際、違うんでしょう。

病気の人たち、

多くの死者のなかに、

職責があると云うただそれだけで、

飛び込んでゆくんですから。

自衛隊、消防士、警察官、

水道管やガス、電力工事の現場作業員。

みんな同じでした。

が、

本社で指示する背広組、

今では憤りも感じませんが、

同じ人間だとも思いません。

東北の真の復興は、

霞ヶ関の役所の東北移転が第1歩だと

私は確信しています。

東北が安全で、

人々が安心して、

自分の子どもたちの成長と思い出の地と

担保でき、

本気で東北の復興を決めるなら、

家族一同で東北に移住し、

国の政治の中心にすれば良いのです。

土地は充分に余っているのですから。

高速道路も新幹線。

アメリカのように、

仙台や福島をワシントンにすれば良いのです。

政治家に対して、

一歩冷めた視線を向けるのも、

そんな度胸もない、

そんな行動力もない、

そんなリーダーシップもない、

それを国民が感じているからです。

 

 

7年経っても

昨日の昼下がり、

息子から電話があり、

もう7年も経つんだねと、

互いの7年前を思いだし、

海を仰いで、

祈りを捧げたのです。

あの日の翌日である今日の今頃、

大空から降り舞う雪の彦根城の前に

立って、途方にくれていたのです。

夜明けを待てずに、

大阪市を車で出発した私は

一路新潟を目指して、

北陸道を駆け走る積もりでした。

が、

春目前にも関わらず、

京都過ぎ、

比叡山の滋賀越え辺りから

激しい雪に見舞われたのです。

雪規制のために、

私の車は走ることができません。

彦根インターにて、

泣く泣く、

高速道路を降りる羽目となったのです。

朝早いので、

何処の店も開店してはおりません。

数ヶ所のタイアショップを探し周り、

なすすべもなく、

彦根城の天守閣の前に

呆然と立っていた私は、

当時の心持ちの

瞬間瞬間を

今でも鮮明に覚えています。

量販店の常識的な開店時刻である10時までの、

長かったこと。

10時から、

彦根中を走り周りました。

季節外れのスノータイアを探すためです。

有名店など、

端から相手にしてくれませんでした。

何件あたったものか。

そんななか、

タイア館の店長さんには、

今でも恩を忘れることができません。

私の事情を聞くや、

お父さん、

絶対に宮城まで行かせてあげます。

タイアの在庫は神戸市に在るようです。

今から車で、

此処まで持って来させます。

運賃なんて要りません。

午後の1時には、

此処を出発できます。

タイアは安心して下さい。

新潟へは夜遅くになるでしょう。

新潟で情報をとって、

日が明けてから山形経由で。

長いですよ。

今、身体を休ませておいて下さい。

息子さんのこと

ご心配でしょうが。

この時ほど、

人の情けのありがたさを

しみじみ感じたことはありません。

息子の今日あるのは、

このタイア館の店長さんのお蔭です。

ハンドルを握りながら、

仮に息子の身に何か在れば、

私も生きて帰る積もりはありませんでした。

被災地の模様を、

私は明日の午後に

実際に自分の眼でもって

体験する訳です。

呆然と立つ息子を

新潟市まで回避させ、

再び宮城まで舞い戻り、

私は歯科医師であることの

意味を初めて、

思い知ったのです。

それからの私の、

歯科医師としてのアイデンティティーは、

腹が座ったモノになりました。

歯科医師しかできない業務があることを

身をもって経験したからです。

ただ、

毎年繰り返される

あの日の報道がテレビで流される都度に、

私の心は不安に怯え、

身体も小刻みに震えるのです。

あの日の記憶は

生涯消えない大きな傷となりましたのも事実です。

被災地の方々の日常は、

今も当時と大きくは変わってはおりません。

共に味わい、

共に祈りを捧げる。

私はそう思います。