日別アーカイブ: 2022年9月3日

事情が あって、

私は 両親との 相剋が 長い期間 ありました。

家業を 継がず

私が 歯科医師になったことも

ひとつの 誘引と なったのですが、

私が 42歳の年に

私と 両親との 仲は 決定的なものと なりました。

それから 数年のち、

大きな 商いを 営んでいた 両親でしたが、

東北地方に嫁いだ 娘夫婦の 誘いに 従って

先祖代々の 商いを 閉めて、

二世帯住宅を建ててくれたら 一緒に 暮らそうという 言葉とおり、

両親は 家の費用を 援助し、

残った 動産 不動産 から 年金手帳 通帳 印鑑まで

人生の 全てを捧げた 財産を 託して

東北地方へと 移り住んだ ようでした。

いつのことか 私は しりません。

が、

年老いた 老夫婦が

新幹線を 乗り継いで 行ったことには 間違い ありません。

2年前、

私は この 母を 東北地方まで 迎えに 出向きました。

父は 既に 他界しておりましたが、

私は 葬儀にも 参列して いません。

父の死後、

姉夫婦から依頼された 弁護士から

遺産放棄を 求める 書状が 届きました。

云うまでもなく、

顧問弁護士に 遺産放棄の 手続きを お願いし、

私の中では、

三枝家と 姉夫婦の嫁ぎ先との 縁は 切ったと 考えていたのです。

2年半ほど 前に 遡って

診療所の 電話に 母から 頻繁に 電話が 入るように なりました。

東北地方へは 行ったものの、

二世帯住宅などは 無く、

即座に、

1ヶ月の食費が 1万5000円ていどの 粗末な 施設へと

訳も 判らない状態で 連れて 行かれたのが 現実だったのです。

母は 三枝デンタルオフィスという 私の 診療所の 名前を 知りません。

ただ、

高松市 菊池寛通り という こと だけを 頼りに

施設に 暮らす お年寄りの 方々の 援助にて

私の診療所の 電話番号を 探したのは

後日 メモを 観て 知りました。

母からの 突然の 電話。

半年ほど

私は どうしても 消化できません でした。

電話に出た スタッフに、

先生は 診療中ですと 言わせて 取りつがせず

逃げて いたのです。

そのような 毎日が 続きました。

でも、

変ですね。

心のなかで、

罪悪感が 段々と 大きく なって きたのです。

時は 新型コロナウィルスが 出現した あの最悪の 時期でした。

歯科医師は 時には 大きな決断を 瞬時に 下さねば ならない時が あります。

そのような 仕事から得た 人格形成の ため でしょうか?

理屈など ありません。

私は 母を 引き取る 決意を したのです。

で、

東北まで 出向き、

レンタカーにて 施設に赴き、

母の姿を 観、

私は 母だと 判りませんでした。

豪勢な 生活を 満喫し、

贅を尽くした 身なりをした 母の 面影は 全く なかったからです。

高額な 衣装と 高額な 靴を 履いているのは 判ります。

それは もう 数年前から 同じモノを まとい、

ボロボロに なって いるのに 唖然と したのです。

今では、

高い洋服などは 買ってあげられませんが、

量販店で 洋服を 購入し、

頻繁に クリーニングに出して、

清潔な 身なりで 過ごさせてと。

しかし、

困ったことに 靴だけは 交換させては くれません。

ボロボロなのに。

母が 言うには、

これは 父と 一緒に 買いに行ったモノで、

ドイツ製で 高い品だからと。

それに、

あなたには たくさん お金を 使わせているから  いいの。

夫婦の【あや】を 感じつつ、

いろんな事が ありましたが、

母 と 息子の【あや】を 感じて きました。

最近、

母は 歩行の リハビリに 通うように なりました。

で、

ついに、

もう 靴は 交換して 下さいと、

先生から 言われ、

やっと 納得したのです。

母愛用の メーカーのカタログを インターネットで検索し、

母の 好みで もっと 簡単に 履き易い品を 選び、

注文し、

宅配便にて 届いたのが 今朝。

持ち帰り、

明日からは 新しい靴に 慣れて もらわねば なりません。

古い靴は、棄てません。

診療所の 取引先の クリーニング店に お願いし、

綺麗に リフォームして 貰う ことに したのです。

母にとっては 大きな 思い出と 苦労を 共にした 靴ですから。

私の 靴棚の

私の 靴と 並んで 静かに 母の 余生を 見届けることに なりそうです。