食育


 テレビのニュースや新聞で
何処かのホテルのレストランが
メニューの食材の産地の
偽装をしていたとの
報で賑わしていた。

 なにを今更と
鼻で笑ってしまった。

 記者会見の場で
大の大人が
並んで頭を下げていた。

 客を呼びたい、
でも、
コストは下げたい
と云う気持ちは
判らぬ事はない。

 但し、
自身に一流の自覚が在るならば
コストを下げたいならば
其れは其れで
悪い事ではないから
客に呈示して
集客すれば良いのである。

 結局は
其のホテルは
一流では無いと云う事である。

 現に、彼の地において
其のホテルを
一流であると
思っている人は居ない。

 但し、
客にも判っていた筈である。

 今時、ロシアでも
稀少になったキャビアが
あんなに大量に安く
食えるものか。

 九条葱にしても然り。
色合いと食感で
判るであろう。

 客にとって
大切であったのは
食材の産地ではなく
調理方法であったのであろう。

 何処の産地であろうと、
客が旨いと感じたなら
其れは其れで
良かったのにと云う感がする。

 何れにしても
背伸びしたホテルの慢心と
客のニーズを
読み間違えた
矢張、
ホテルのマーケティングの
未熟さの結果であろう。

 一番最悪なのは
九条葱の偽物を
判らず食っていた
客の舌である。

 常日頃、
ファーストフードやコンビニの
調理済み食材に
慣れ親しんでいたり、
親や女房が
手を抜いた食事に慣らされて
たまの外食が
グルメ本頼りであれば
舌と眼は
鍛えられ様筈はなし。

 食育と云う言葉を
暫し、耳にする様になったが、
なにも
食育は児童の福祉の為に
在るわけではない。

 食は文化である。

食によって、
人は
感性と人格、教養
全てに於いて
育てられる。

 因って、
食育とは
生涯に亘って
人であるかぎり
疎かに出来ない
要である。