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旧い知人からの封書が届きました。

大学時代の先輩の妹君です。

もう成人した息子さんとそのお子さんを二人も持つ

おばあちゃまになられたとか。

2年年長の先輩でした。

日大の法科を卒業されてから歯科大学へと進まれたために

本来の学年よりズット落ち着きのある好青年でした。

私が1年生の冬、

この先輩は本試験の日に突然に姿を消しました。

優等生であったことから、

試験が嫌で逃げたと云うことは誰も考えません。

同級生、クラブの先輩、後輩はもとより、

大学当局も総出で、

警察、消防の方々の手も借りての

大騒動であったことを覚えています。

ご両親の心労も大変なものでした。

この先輩には大変、お世話になったために、

私も相当に精神的に追い詰められていました。

ご自身のせがれの心配だけでも相当なものでしたでしょうに、

私を片時も離すことをされませんでした。

実は、

試験の前日、

仕送りを使い果たした私に飯を食わせようと、

ご自身の試験の追い込みも余所に、

私を連れて街の食堂へと。

食堂のテレビの画面に流れる石川さゆりさんの唄う

津軽海峡冬景色を鮮明に覚えています。

三枝、シッカリ頑張れよ!

後ろ手に振りながら先輩は雪を踏みしめて去ってゆきました。

これが先輩との最後の瞬間でした。

関係各署のご協力にも関わらず、

依然として所在は判りませんでした。

思い余った私は突然に馬鹿な事を口走ったのです。

京都の知人に霊感あらたかな高僧が居られます。

ご不快にならないで下さい。

科学を学ぶ者失格かもしれません。

でも、私は行きたいです。

ご両親と共に、

新潟発の夜行列車に乗り、

京都駅のホームに立っていました。

で、

高僧が開口一番。

息子さんはお母さんの元に帰ってきます。

場所は新潟市大学付近○○橋の横。

3月の○日の○時ころ。

ご両親が大声で泣き叫び、

ありがとうございます、ありがとうございますと、

高僧の手を握り、

私は腰を抜かさんばかりに安堵したのを覚えています。

で、指を折って、その日を待ちました。

みんなで迎えに行ったのは言うまでもありません。

私なんぞは、

あれだけ飯をタカったのを忘れ、

ぶん殴ってやると意気込んでいたのです。

ご両親ですか。

じっと、じっと、暖かい眼差して立って居られたのが印象的でした。

予定の時間がきました。

橋の向こう側からとぼとぼと歩いて近づく先輩の姿は見えません。

落胆する心。

ふと、

視線を落とした時、

氷で覆われていた信濃川も水面が割れて、

言葉になりません。

確かに先輩は、

私らの処へと帰って来られました。

綺麗なお姿でした。

そこからは言葉になりません。

時計は私と別れた後の15分頃を示していました。

山梨県の故郷へと息子さんと共に帰郷された父上は、

菩提寺に独り息子の生涯を刻んだ鐘を寄贈しまもなくお亡くなりになりました。

この写真は、鐘を寄贈された際に当地へと訪れた私たちに、

一席設けて下さった際のものです。

私の左側がお母上、

右手に父上が居られます。

私が二十歳の頃です。

今でも石川さゆりさんの津軽海峡冬景色を聴くと

この先輩を思い出すのです。

超難症例の手術の際にバックミュージックをかける癖があるのですが、

石川さゆりさんの津軽海峡冬景色が在るのは言うまでもありません。

大勢の方々に育てて頂き、今日が在ります。

当時はうら若き美少年?であった私に、

ある種の覚悟が、

色々な経験で身についたんだろうと、

この懐かしい写真が、

思いだしてくれたように思います。