覚悟を決めるのは苦しいモノじゃないですよ


教会でのミサに参加したあと、

診療所へ向かいました。

かねてより、

私の診療所を訪問したいと云う、

大学時代の先輩との約束があったからです。

急にお電話を頂き、

日曜日を利用して、

私の診療所を訪れる歯科医師は少なくありません。

このようなお申し出を

心良く受け入れることにしています。

朝のミサは、

久しぶりに司教さまが、

取り仕切って進められました。

マルコによる福音の朗読の後の、

司教さまの説教では、

イエスさまが最後の夜の晩餐にて、

弟子たちに、

パンを取り、

これを割って仰せになりました台詞。

これは私の身体。

これを食べなさい。

カトリック信者においては、

ミサの最大のクライマックスの部分です。

とても、

身近な台詞です。

司教さまは、

この身近な台詞の意味を

深く説明されておられました。

カトリックのミサは、

厳格に決まった手順にて進行します。

ただ毎回、

栄光の賛歌と云う賛美歌が歌われます。

しかし、

歌詞は同じでも、

曲がミサの度に変わりますので、

その都度、

変化に対応して賛美歌集の頁を

急いで捲るのです。

もっとも、

私は楽譜が読めませんので、

周囲の方々の歌声に合わせているのが本当の処ですが。

昨日の栄光の賛歌は、

賛美歌集の204番であることを

やっと記憶したのです。

まだまだ新米信者ですから。

私は、

204番の節回しでの

栄光の賛歌がとても好きです。

1週間の暮らしでの、

身体と心に残った汚泥が、

綺麗に洗われるような想いとなり、

堪えていますが、

涙が出そうになるのです。

だから、

毎週日曜日の休日だと云うのに、

教会へと、

足が自然と向くのだと思います。

週ごとに、

私の身体の中に、

神さまを頂く訳ですから、

綺麗に日々を過ごすことを

心に留めながら、

それが、

カトリックを受け入れてからの、

大きな私の変化となりました。

これは、

診療のスタイルも、

治療方法の決定においても、、

治療の実際においても、

大きな影響を受けたと思います。

歯と身体を、

もっと深く読み込むことを

徹底的に行うようになったと思います。

患者さん以外の、

ほとんどが歯科医師の方々ですが、

診療所の門を、

広く開放したことも、

私の中での大きな変化です。

わざわざ私の診療所へと、

見えない力に押されるような心になって

お越しなられる歯科医師は、

それぞれに悩みや迷いがあるようです。

お話しを聞くことくらいしかできません。

が、

皆さんは、

本当は判って居られるようです。

ご自身が何をしたいのかは。

私は自分の歩いてきた道を

振り返って、

決して胸を張れるような自信はありません。

後悔の多い人生です。

が、

歯の仕事にのみは、

自分の前に大きな分岐点があった時に、

自分にとって、

苦しい方を、

自分にとって、

厳しい選択を、

選んできたことだけは、

本当です。

また、

自分の仕事の評価を、

厳しく採点する日々を送るのも、

これもキツい判定ですが、

ズッと続けています。

でもね、

それは修業のように苦しい毎日ではありません。

サラッと決めてしまえば、

歯で、

トコトン楽しんできたように思いますモノ。

昨日の先輩は、

お帰りになる際には、

穏やかな表情に変わっておられるのが、

判りました。