あの日・あの時

今日は、

どんなに多忙であっても、

ブログを更新しなければなりません。

アレから既に8年も経ったのですね。

先の東北大震災の日。

当日、

仙台駅に居た高校受験直前の息子から、

悲鳴の携帯電話を受け取ったのは、

大きな揺れが起きた直後のことです。

息子の声は、

ただ一言。

父ちゃん、助けてくれぃ!

叫び声でした。

私は翌日に新潟駅まで息子を迎えにゆく約束で、

北陸道を目指して、

阪神高速をちょうど、

西宮付近を走行中でした。

そこからの記憶は、

今でも一刻一刻と、

鮮明に覚えています。

霊体離脱したかのように、

私は自分の表情の変化も、

鮮明に覚えています。

一生の中で、

このような絶望と恐怖を味わうことはないでしょう。

恐怖の二日間、

私は、

この日のために、

自己修錬して備えてきたのかもしれません。

片道燃料で、

豪雪の奥羽山脈を日本海側から太平洋側へと

横断できたのは、

震災から2日あとの夕刻でした。

息子が行方不明だったら、

見つけるまで捜す。

不幸な結末であれば、

私も其処で一生を終えるとの

覚悟であったことは間違いありません。

私ら親子は運に恵まれただけだと思います。

大勢の犠牲者の方々には、

申し訳ない気持ちが、

未だに消えません。

傷ついた息子を助手席に乗せ、

通行止めの雪の壁に囲まれ、

燃料を確保しながら、

山形市に着いたのは、

地震発生の3日あとの夜でした。

食料は何処にもありません。

寒さをしのいで、

夜明けと共に出立して、

新潟の信濃川沿いに架かる萬代橋が

闇の中で浮き彫りになる光景に、

私は天に手を合わせたものでした。

息子を落ち着かせて、

翌々日、

私は被災地へと舞い戻ったのです。

私が歯科医師であるからです。

被災地での光景は、

忘れることは無理でしょう。

でも、

他人に伝えるだけの消化はできていません。

ただ申し上げられますのは、

戦争も震災も同じです。

破壊力が地震・津波・土砂崩れ。

それと、

ミサイル・爆撃、

違いこそあれ、

結末は全く同じです。

絶対安全神話が夢物語であったように、

私たちは、

不戦の誓いだけは、

守り抜くことの強い意志を主張しなければなりません。

絶対あってはならないこと。

そして、

絶対に守らねばならないこと。

多くの尊い命のなくした犠牲ゆえに、

私たちは覚悟を持つことが大切です。

犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈りします。

犠牲者のご家族の方々の心の傷の深さ。

私には、

お悔やみの台詞が見つかりません。

復興、

この国は本気で、

この台詞への責任を家族のように、

受けとめて頂きたい。