日別アーカイブ: 2013年10月23日

私の老眼鏡 その2

 この間、新潟に行った際に
古町の眼鏡屋で
好みの老眼鏡を
同じものを色違いで
三個程、
購入した私である。

 此の老眼鏡は
アメリカの人気連続ドラマである
CSIニューヨーク科学捜査班に登場する
司法解剖医が
供しているものである。

 新潟の古町の眼鏡屋で
同じものを
偶然に見つけ
小躍りした私であった。

 使ってみると
此れが断然、
具合が良い。

 そこで今回
是非にスペアーをと
買い求めに
出向いたのである。

 此の話を
四国中央市に在る
仙龍寺の御内儀に話をしたら
それは眼鏡屋の店の店員が
若くて美人であったのでしょうと
笑われてしまった。

 普段は美人に弱い私であるが、
此の時ばかりは
眼鏡の使い勝手の良さに
店員が美人であったか
どうかは
忘れてしまっていた。

 そう言えば
若い時分には
美人を前にしたら
自分を繕う自身を
意識していたが、
もう此の歳になると
相手が
どうのこうの等
関係なく
好きな事を
言える様になった。

 歳をとるのも
案外、楽で善いのかもしれぬ。

親たる者の責務

 男子厨房に入るべからずと云う
言葉が在るが、
此れは大いなる誤りである。

 私は、
倅とも、
小さな娘達と共に
料理をするのが
楽しみである。

 又、
料理には
手際が大切である。

 此の辺りを
子達に見せるのは
大切な事であると思っている。

 料理をする上で
最も肝心な処は
器撰びと
盛りつけにあると
云って良い。

 目で違和感ある
器と盛りつけに接した時に
その人の
生き様が
推し測られる。

 倅が、
特に娘達が
成人した際に
恥をかくのは
親たる私が
恥をかくのと
同じである。

 一輪の花の活けようにも
其の活ける人の心が映るのと
同じく
料理の盛りつけ様にも
其の人の
生まれと育ちが
映えるのである。

 食材に見いる幼い娘達の瞳の輝き様に
親たる者の責務を感じ
長箸を
動かす私である。

 焼いた松茸の盛りつけの
基本処を
今夜、
娘達と
楽しもうと思っている。

年末年始の過ごし様

IMG_20120212_105514 家人は沖縄の人である。

 高松から飛行機で
直行の地となったが、
近くて遠い
文化も風習も異なった
異国とも云える
南国である。

 讃岐に縁者のいない家人である。

 正月くらいは
生まれ育った故郷の地で、
馴染んだ言葉と食べ物で
ゆっくりとさせて遣りたいと
帰省させる様にした。

 家族の多い
我が家である。

 全員が沖縄へ行くとなると
航空運賃で
悲鳴を挙げねばならぬ。

 又、私は昔ながらの日本人故に
正月は古来の伝統で
此れを迎えねば
気がすまない質である。

 後継ぎ息子の倅と
これ又、後継ぎ娘の長女には
日本の作法を伝えねばならぬ。

 この様な訳で
私は
倅と上の娘、
そしてゴテ坊の末の娘を
引き受けて
家人に冬休みを
馳走することにした。

 但し、
家人も独りで
里帰りする訳には
顔が立たずに
そうも往かぬだろうと
真ん中の娘が
沖縄へと。

 もしかすると
これ等は言い訳かもしれぬ。

 鬼の居ぬまに
私は倅と其々が、
小さい娘を
一人づつ担当し、
スキーに行って、
旨い食事に行って
寛いでいるからである。

 傍目からしてみれば
奇妙な正月の送り方かもしれないが、
仕事に
小さい子達に
追いまくられて
日々を過ごす
私共である。

 年の終りと初めこそ、
肩の力を抜いて
過ごしたいからである。

来年の抱負

 此のところ、
朝の目覚めがスッキリしない。

 犬達から
早く散歩だ、飯をくれと
囃し立てられるが
隣で眠る末の娘も
夢の最中である。

 ようやく床から這い出し
上衣を羽織って
ボサボサ頭で
リードを手にすると
もう
足元で犬達が
もつれあっている。

 家戸を開けると
グッと寒気が
頬を刺す。

 犬達が尻尾をフリフリ
歩いて行くのを
追いかけて付いて行く。

 台風が去ると
讃岐にも
冬の到来が。

 一年の過ぎ去る事の速いこと。

 今年は、
ご先祖の仏壇を
お祀りする事になった事くらいしか
確たる仕事はしていない様な気がする。

 そろそろ、
来年の抱負を
考えねばならぬ。