日別アーカイブ: 2017年8月1日

小学時代の思い出

私は昭和38年の生まれです。

ですから、

昭和中期の高度成長期に幼少期を過ごしました。

今でも小学1年生の担任であった中年女性の先生を思い出すのです。

評判の恐い酷しい先生でした。

入学式の際の担任発表のあと、

担任の名前を知った近所のオバチャンたちから、

尚登君は大変なことになった!と、

それはそれは憐れむような眼差しで口々にされたのです。

で、

想像を絶する私の小学校生活が始まったのです。

クラスの誰かが忘れモノ。

さすれば、

コリャ~!

お前ら!

全体責任じゃい!

クラスの全員を教室の後ろにズラリと並ばせ、

隣あった者同士の頭を鷲掴みし、

次々と、

頭つきしてゆくのです。

教室にはゴツン!ゴツンと云う鈍い音が鳴り響くのです。

小柄であった私などは、

要領を得て、

背の高い奴の横にサッと並ぶのでした。

頭つきではなく、

横の肩にぶつかる訳で、

私らは互いに痛みから逃げおおせたからです。

が、

敵もさること、

今度は私の顔を睨み付け、

横の生徒を動かし、

同じ背丈の生徒を連れてきて、

ゴツン!

トシ子ちゃんと云う大人しい女の子の

名前を今でも覚えています。

給食の好き嫌いの激しい女の子でした。

これも許してはくれません。

食べ終わるまで、

トシ子ちゃんだけ机の上には給食が。

凄まじいのは、

金曜日の給食が、

翌週の月曜日までトシ子ちゃんの机の上にありました。

考えれば、

トシ子ちゃんも頑固者。

ズット自分だけ、

机の上の給食とニラメッコですもの。

月曜日の朝の教室は、

腐った給食の異臭が漂っていました。

夜が来て、

ベッドに仰向けとなり仰ぎし天井を観ながら、

明日は何が起こるのか!

恐くて恐くて仕方がありませんでした。

幸か不幸か、

この先生、

1年の途中で、

体調を崩され学校から去ったのです。

確かに超ド級の凄まじさでしたが、

この先生だけが、

特殊だった訳ではありません。

4年の担任だった、

やはり女性先生も凄かったですよ。

おィ!三枝!

チョッと来い!

手招きするので、

席から前に鎮座する女先生の処へ行く私。

クワッ!

大きな翼を広げた鳥獣が、

喉に詰まった餌を吐くような音をたてて、

老女先生が痰をちり紙に吐き出すのです。

恐るべき柔らかそうな白い紙の塊を、

ホイ!手を出してみィ!

恐る恐る出でたる私の掌の上に

ポン!

で、

棄てて来い!

小学6年の時の、

これまた中年女性である担任には、

当時流行っていたダウンタウンブギウギバンド。

宇崎竜童さんと云えば懐かしい。

下げた位置でのエレキギターのネックを片手に握りしめ、

あんた!あの娘の何なのさ?

掃除の時間に友人たちと、

掃木をエレキギター代わりに、

あんた!あの娘の何なのさ?

これを

不幸なことに見つかって、

頭を鷲掴みされ、

黒板の方へ投球の所作!

哀れなる私らは、

黒板の板が枠から外れてしまう道具と化したのです。

どうですか?

今の人からすれば信じられないでしょう?

こういう先生って、

私らの時代は普通に居ました。

先生って恐い人って思っていましたもの。

今なら事件になっていると思います。

私らは、

こんな環境で育ったのですよ。

 

 

宿命

最も新しい治療の導入、

そして、

従来から在る確かな治療方法を

と云う

チョッと単純に聞けば矛盾する

2刀流の実践が必要なことに、

医療と云う分野の特殊性が在ると思うのです。

手堅い治療を心がけながらも、

でも時には、

リスクを背負ってチャレンジする気概も

私らの仕事には絶対に必要なのです。

その分別の根拠を

自分の中でシッカリと確立することが

医療人の責務であります。

てな判ったことを言っていますが、

その確かな根拠見つけの旅の最中でも在るのも事実です。

ですから、

毎日、毎日の診察に際して、

正直申し上げて、

心配で心配でなりません。

患者さんそれぞれに対して、

その時の自分のベストを出しきる努力と、

粘りと云う表現が最も適切かもしれませんが、

治療結果の合格点を、

少しずつ上昇させてゆきたいと、

好んで自分を傷める仕事かもしれません。

でも、

歯の一挙一動に興味をひかれ、

ついつい夢中になるのです。

変な話しですが、

レントゲンを診れば、

歯の寿命が判ってき、

その寿命を、

もっともっと延命させたいと

現状に戦いを挑むのが、

私の日常となりました。

それが知識を越えた知恵の取得であり、

また、

技術者の宿命だと思うのです。