日別アーカイブ: 2018年3月28日

私の母校

私の所属する日本歯科大学について、

少しばかり、

お話しさせて頂きます。

創立者は中原市五郎先生です。

長野県山間部の農家の生まれだと記憶しています。

先生は幼少期より、

片方の脚がご不自由であったとか。

少年から青年に至る頃でしょう。

先生は徒歩で上京されたそうです。

江戸幕末から維新の頃です。

当時の歯科医師の教育は、

徒弟制度で成り立っていました。

今で云う歯科医師国家試験は、

開業認定試験と云うもので、

先生も当時の制度で歯科医師となられたのです。

開国により海外からの進んだ制度の吸収に積極的であった政府は、

本格的な医学教育に力を注ぎます。

旧帝国大学に次々と医学部が設立されたのは

そういう事情です。

先生は歯科の事情を踏まえ、

我が国での歯科医師教育の充実性を強く認識されておられました。

そこで国に強く歯科医師教育機関の設立を求めます。

が、

歯科医師は医師に非ずという国の認識から

門前払いになったと云うのが現実でした。

ついに先生は私財を投じて、

ご自身の強い意思を実現される行動を採られます。

現代の皇居近くの、

パレスホテル付近になりましょうか。

共立歯科医学校を設立されました。

明治40年の学校設立法設定の伴い、

名前を日本歯科医学校へと変更し、

今の東京キャンパスの在る飯田橋へと移転し、

その後、

日本歯科医学専門学校から

日本歯科大学へと組織を進化させられたのです。

今でこそ普通に歯科医院で薬は処方されますが、

歯科医師は医師ではないと云う理由で、

当時の歯科医師には、

その権利はありませんでした。

注射も同様です。

薬の処方の権限、

注射行為の権限など、

日本歯科大学が働きかけて得た歯科医師の職域は

数限りありません。

口腔外科と云う標榜も

日本歯科大学の仕事の1つです。

ここに日本歯科大学が歯科の源流と言われる由縁があります。

昭和の成長期になると、

今では考えられませんが、

歯科医師数が全く足りませんでした。

そこで伝統校である日本歯科大学は動きます。

裏日本側の地域を選んで、

第2番目の歯学部を設立します。

昭和47年に新潟校が設立されました。

日本歯科大学のフロンティア精神の表れでもあります。

創立時の経緯から、

【自主独立】が建学の精神です。

現代においても、

国からの助成金を全く受けない唯一の大学であることからも

建学の精神は脈々と続いています。

大学の学長は、

市五郎先生からご子息の実先生へと引き続がれ、

その時代に、

日本歯科大学は先の大きな発展を遂げました。

当時の武見太郎医師会会長と歯科医師会の中原会長のコンビが

保険医総辞退と云う行動を一糸乱れず採ったことは

語り草になっていましたが。

今は実先生のご子息である泉先生がお務めになられています。

日本歯科大学は中原学校と言われています。

私たち卒業生は、

それを当たり前だと、

自然にそう思っています。

【歯学は私学によって創られた】とも言われます。

歯学は中原学校日本歯科大学の手で

進化しているからです。

近年、再生医療の観点から、

【歯のバンク】も東京キャンパスと新潟キャンパスに設けられました。

先の先を観て行動に移すと云う泉先生のお考えの結果です。

私たち卒業生は、

このような空気の中で、

歯科医学を学びました。

他校の卒業生と匂いが違うことは

当然の成り行きだと思います。

私は母校の教壇に立つ時には、

他での講演の際とは全く違った

大きな責任を感じています。

それは、

日本歯科大学の教壇に立つことの名誉を熟知しているからです。

一般の皆さんが、

歯科界の歴史や事情に疎いのは当然ですが、

我が国の歯科界は、

このような経緯にて今日あるのです。