私の明訓詣で


私が歳をとったからでしょうか?
最近の若い男を観て、大人しく感じてしまいます。

母校の学生諸君の優等生振りにも、戸惑ってしまいます。
余りにも礼儀正しいので、倅ぐらいの年端も往かぬ学生諸君に対して此方もつい、丁寧語を使わねばならないと姿勢を正してしまいがちになってしまいます。

先日、倅の通う新潟明訓高校へ出向いて行きました。

私の若い時分には、市内のど真ん中に在った此の越後の名門私学も、今では郊外の広いキャンパスへと移転し、
田園の稲面に映る校舎は誠に美しいものす。

この私の明訓詣では、1年の中の何度も繰り返し行事であり、それは進路相談のための親子面談の為ではありません。

倅は所謂、ヤンチャ坊主の中のヤンチャ坊主です。

倅を通じて世間様に頭を下げる事、しばしば。

私の頭は、明訓高校を取り囲む稲穂の様にならざるを得ない状態となり、
それは1年の四季を通じてのものとなり、年一度の稲穂を羨む心持ちになる事、これもしばしばであります。

倅の事で頭は下げるのは、今に始まった事ではありませんが、下げながらつくずく感じますのは、
嗚呼、ヤッパリ倅を此の学校に託して良かったと云う私の選択の正しさ!です。

越後人の懐の広さと深さを実感します。

今の世では、愚息の中の愚息の見本の様な倅でありますが、必ず父と同様に、此の越後の地が第2の故郷と感じる様になるでしょう。

頭を下げる父をものともせず、愚息の表情は日毎に穏やかに育っているのを観て、
情けない気持ちと安堵の心が交錯する複雑な新境地の私です。